映画「ニジンスキー」、そして「ディアギレフ」という本

最近「春の祭典」についてのサイトに出会って、ふと思い出して映画「ニジンスキー」のビデオを手に入れた。僕がこの映画を最初に見たのは1982年の秋。場所は新宿歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」 思えば、今流行りのミニシアターのはしりですね。(今となっては、ちょっと「ロケーションに難有り」だけど)

82年は、大学を出た年。卒業の直前には、大学オケで1ヶ月の演奏旅行に出た訳だけれど、その時のメインがストラヴィンスキーの「春の祭典」。そういう縁で、この映画も気になったという訳だろう。

それ以来、25年振りに見た。あらかたのシーンを覚えていた。好きな映画であれば大抵繰り返して見ているので不思議はないが、この映画に関しては、一度しか見ていないのに、余程印象が強かったのだろう。

今見てみると、映画としてどれほど面白いものであるかは、正直言って判断を下し難い。だが、おそらく資料的価値はかなり高い。ロシアバレエ団の代表的な演目が断片的ではあるがいくつも挿入されているのだ。例えば「バラの精(舞踏への勧誘)」「シェラザード」「ペトルーシュカ」「牧神の午後」「遊戯」。主演クラスに一級のバレエダンサーを配しているし、監督のハーバート・ロス自身がダンサー/振付師出身、プロデューサー(奥さん)もバレリーナだったので、バレエ・シーンはしっかりしている。バレエシーンの無いものでも、衣装合せのシーンで「青神」の扮装のニジンスキーが出て来たりする。(身体全体を濃い青に塗って、タイ風の衣装を着けている。) 但し「春の祭典」はちょっと微妙。振付に関する資料が殆ど残っていなくて、キチンとした再現は(少なくと映画制作時点では)無理だったらしい。

アラン・ベイツがディアギレフを演じている。「一房の白髪を配した前髪の、身なりの良いロシア貴族」 それまで、僕はこの俳優を殆ど知らなかった所為もあって、これがディアギレフか、と素直に映画に入れた。もっとも、後でものの本を読んだり、肖像スケッチを見ると(コクトーの描いたモノクルをはめた絵)、もっと人を喰ったところがあって、得体の知れない怪物の様なところがあった男だったらしいけれど。ニジンスキーを演じたのは、ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャという当時現役のプリンシパル・ダンサー。おそらく、本物のニジンスキーより大分ハンサムな人。本物は、バレエ学校時代その非西洋的な顔立ちの為に「日本人」とあだ名されていたという、西洋的感覚からすれば「異形の人」だったらしい。という訳で、ビジュアル的には大分アク抜きしてロマンチックな「カップル」になっているのだろう。

確かに、映画としては幾つか問題を感じる。ディアギレフとニジンスキーの間に溝が出来ていく過程はありきたりのメロドラマ過ぎる気がするし、「春の祭典」の使い方にしても、バレエのシーンが今少し食い足りないと感じるのは、あの曲へのこちらの思い入れが強過ぎる事情を差し引くとしても、その後のシーンでディアギレフに捨てられたと思い込んだニジンスキーが自暴自棄になり、南米に向かう船室の中で荒れ狂う、その音楽が「ハルサイ」というのは、少々陳腐に過ぎる気がした。あるいは、砂浜のデッキ・チェアに身を横たえたディアギレフがニジンスキーと遣り取りするシーンは、「ベニスに死す」のダークボガートとどうしてもダブルし。(確かにディアギレフは、ヴェネチアで最期を迎えたのだけれど。)

それでも尚、僕にはこの映画は楽しめるものだった。プロットに多少納得いかないところがあっても、バレエやその他のディテールについては、本物を作りたいという意気込みは伝わって来る。 最後のクレジットを見ると、ハンガリー、シシリー、モナコとロケをしたらしいが、劇場やホテルの風景も含めて良く当時の雰囲気を伝えていると思う。この映画は、ビデオテープでしか出ていない。こういう映画こそ劣化しにくいDVD版が欲しいのだが。

この映画の後、イギリスの舞踊評論家リチャード・バックルの労作「ディアギレフ」の日本語訳(鈴木晶訳)の上下2巻が刊行。それぞれ1983年、84年のリリースだった。自分の蔵書の奥付を見ると、どちらも第1版とあり、飛びつく様に買ったのを覚えている。特に、上巻を読んだ後は下巻のリリースが待ち遠しかった。それぞれがハードカバーで400ページ近く有り、2段のかなり細かい字組みの大部な本で、訳者の鈴木晶は「原版より図版を豊富にした」と自慢していた。

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (上)

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (上)


ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (下)

ディアギレフ―ロシア・バレエ団とその時代 (下)


題名の示すとおり、この本はディアギレフの伝記であるから、彼がロシアバレエ団を創設する以前も描かれているけれど、これは基本的にロシアバレエ団の完全記録と言っていいだろう。この本は、いわゆる物語ではない。膨大な資料(細々としたメモや領収書類まで含む)と多数の関係者からの証言も基にした記録の集積だ。著者の主観を交えた記述は「全く」と言っていいほど無い。(勿論、何に/誰に語らせるかという選択は著者の意思が決定的に働くのだろうけれど)

主だった記述には、そのソース(物/人)が注意深く付記されている。更に下巻の巻末には、上下巻を通じて登場した人物、あるいは単純に触れられた人名についてまで、どのページに出て来たかを細大漏らさず記した索引もある。つまり、誰が/どこで/いつ、ロシアバレエ団に関わったかが判るのだ。20世紀の、少なくとも20世紀初期のヨーロッパにおける音楽、美術(舞踊は勿論)を革新した担い手たちの多くが関わっていたロシアバレエ団なのだから、これはすごいクロニクルだ。

ディアギレフの最期を描く場面になって、著者は初めて叙情的に綴る。数々のバレエのキャラクターたちにディアギレフの昇天を見守らせるのだ。最後はこう締めくくられる。「音楽が始まる。遠くで角笛が鳴る。そしてディアギレフの長い午後が始まる。」  

この本は、ディアギレフの死を以ってキッパリと終わる。エピローグめいたものは無い。「ディアギレフの長い午後」というのは何かなと考える。それが彼のロシアバレエ団から生まれたもの(人)、あるいはそれに関わったもの(人)のことを指しているとしたら、それは確かに長く今に至るまで続いている。いろいろなところで。

この貴重な本が、日本では廃刊になってしまった。出版元(リブロポート)が解散してしまった所為らしいが、これはかなりの痛恨事だと思う。

映画「ニジンスキー」のオリジナルのリリースは1980年。「ディアギレフ」(本)のオリジナルは、1979年に出版されている。映画は、ニジンスキーの妻の著作とニジンスキー自身の手記を元にしているが、この本を参考にしたらまた違ったものになっていたろう。そのうちロシア人が、いい加減貯めこんでいるらしいオイルマネーをふんだんに使って、ロシアバレエ団のドラマを作らないものかと思う。ロシア人キャスト/ロシア語バリバリのドラマを。

それにしても、ロシアバレエ団の事を考えるとワクワクして来る。これらの映画や本に夢中になってからもう20年以上経ってしまったけれど、映画を見て興奮が蘇って来た。

【参考サイト】

1.映画「ニジンスキー」の解説: 「ディアギレフ」の訳者 鈴木晶氏による解説。今は法政大学の先生をしているらしい。鈴木先生のサイトはこちら⇒ Sho's Bar

2.「春の祭典」の解説: サンフランシスコ交響楽団の音楽監督マイケル・ティルソン−トーマスがホストになって楽曲解説をするテレビ番組 Keeping Score に連動したウェブ・サイト。中身は、TV番組の宣伝というレベルではなく、別個の「ウェブ教材」になっている。ビデオ・クリップはTV番組からの抜粋で絵も小さいが、いろいろ面白い。他に、ベートーヴェンの「英雄」交響曲や、コープランドを扱った回もある。この方のサイトから知った。