志ん朝で「富久」を聴く

今夜は底冷えがする。思わず、志ん朝の「富久」を聴く。

三題噺風に言えば、師走、火事、富くじ。アメリカに居る時にも良く聴いた。部屋を真っ暗にして聴いていると、通りに掛け出る幇間の久蔵が思わず首をすくめる姿、その上に広がる冬の冴えた夜空が目の前に広がる。志ん朝が死んで6年が経った。この口演は、1976年の録音だという。志ん朝38歳の時だ。今の僕より10歳若い。良く通る明るい声音。明瞭な口跡と心地よいテンポ、リズム。ハツラツとしているけれど「未熟」という意味での若さは微塵もない。
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自慢にはならないが、世に出ている志ん朝のCDは全て揃えていると思う。だが本当に恥ずかしいことだけれど、生では一度も聴いていない。これは本当に残念なことだ。手元のCDに残る演目は全部で丁度60あった。全てライブ録音だが、どれも完成度は高い。円生の労作「円生百席」は完成度を意識して、全てスタジオ録音にしたというが、志ん朝は60席を全てライブでものして、どれも優れた完成度を示している。そこに、ライブらしい客の反応も記録されていて楽しい。ちょうど円生の録音をカラヤンに例えれば、志ん朝の残した録音にはカルロス・クライバー(彼もライブ録音しか残さなかった*注)の録音の様な爽快な趣きがある様に思う。だから、この珠(たま)を大事にするしかありませんね。

志の輔も昇太も面白い。でも落語を聴いてみたい、という人がいたら、まず志ん朝を勧めたい。

(*注)まじっくばすーん氏から「クライバーにはスタジオ録音もいろいろある」とのご指摘受けました。申し訳ありません。「ライブ録音が多い」という辺りでお願いします。