ザルツブルク: モーツァルテウム~カラヤン生家~もうひとつのモーツァルト・ハウス

ひとつ追加します。

今回でザルツブルクは3回目だったけれど、初めて訪ねた場所が幾つかある。祝祭劇場はその最たるものだけれど、モーツァルテウム、カラヤンの生家、そしてもうひとつのモーツァルト・ハウス、というのも今回の初物。

もっともそれら目当てに探し回った訳でもなく、たまたまホテルから音楽祭(旧市街)へ通う道すがら「そう言えばこの辺にあるみたいですねぇ」と見つけたもの。何しろ、今回同行した先輩ご家族は「あれが見たい、これが見たい」とうるさいことをおっしゃらないのをいいことに、素人ガイドも余り計画性のないもので… 

モーツァルテウムは、有名なミラベル庭園を挟んで新校舎(近代的と言えば聞こえが良いが、通りから見るとコンクリートの箱という感じ)と旧校舎がある。因みにモーツァルテウムは「音楽院」とされることが多いけれど、これも音楽祭と同様、音楽と演劇のコースがあるので、正式名称は「ザルツブルク・モーツァルテウム大学」となっているそうだ。モーツァルテウムのホールも音楽祭の演奏会場のひとつなので、ここでもいつか聴いてみたいもの。

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そして、旧校舎と道路を挟んだはす向かいにカラヤンの生家がある。おそらく100メートルくらいの距離だ。4階建ての建物(今は銀行の支店)は裏(というより表か?)がザルツァハ川に面していて、その向こうに旧市街とホーエンザルツブルク城が望める。隣りはザッハ・ホテルなので、ザルツブルク市街では一等地だろう。但し、4階建て全部がカラヤン家の持ち物という訳ではなく、2階部分(日本式の3階)を持っていたらしい。とは言っても、いわば高級アパート(マンション)のひとつの階を全部所有していたということだろうから、裕福な家庭であったことは確かなんだろうね。建物には「カラヤンの生家」というプレートが掲げられ、ザルツァハ川に面した庭には指揮するカラヤンの立像(ブロンズ像)がある。

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とにかく、カラヤンはそこで生まれて8歳から18歳までモーツァルテウムで学んで(勿論「神童」と呼ばれて)、その後はウィーンで学んでいる。勿論、すごい才能を持った人なのだろうけれど、そういう才能がこういう環境に生まれ育ったというのは、これもまたすごいことだと思う。後年、カラヤンはこの町の夏の音楽祭を今の地位に押し上げたり、新たに復活祭音楽祭や精霊降臨祭音楽祭も始めて、それを商業化の権化の様に揶揄する向きもあったと記憶するけれど、自分の故郷に対する誇りとこだわりは理解出来る様に思う。今回の音楽祭見物では、その恩恵に浴している、としみじみ思ったし。

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◆マカルト小橋から:カラヤンの生家からもほぼ同じ眺め

ところで、カラヤンの生家とザッハ・ホテルの間から「マカルト小橋」という歩行者専用の小さい橋が、旧市街側に渡されている。この橋の欄干には金網が張られて、そこに無数の南京錠が括られている。パリのポンデザール(芸術橋)などでおなじみの「愛の南京錠」というやつらしい。いつの間にこんなのが始まったんだ?

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さて、モーツァルテウムとカラヤンの生家の近所には「モーツァルトの住居(通称:タンツマイスター・ハウス(舞踏教師の家)」というのもある。名前の由来は、大家さんが舞踏教師だったから。有名な旧市街(ゲトライデガッセ)の生家の後に移り住んだという家で、モーツァルトがウィーンに移るまで住んでいたところ。第2次世界大戦の爆撃でかなりやられたのを、1966年に篤志家の寄付を募って(大口には日本の某生保会社というのもある)修復したという。生家にはなかったそこそこ広い「広間」がある。レオポルトお父さんの収入が増えたのか、子供たちの稼ぎも貢献したのか、とにかく前より広いところに移れたらしい。良かったですね。

◆位置関係

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