ウィーン・フィル 第3回定期演奏会(ムジークフェライン)

Wiener Philharmoniker
3. Abonnementkonzert

2011-11-26, 15:30
Musikverein, Grosser Saal
Dirigent: Peter Eoetvoes
Martin Grubinger, Schlagwerk
Friedrich Cerha: Konzert fur Schlagwerk und Orchester
Bela Bartok: Konzert fur Orchester

この演奏会のチケットはネットでは買えないので、予め日本でエージェントに手配した。金額は定額で席は予め指定出来ない。取れた席は、1階広間の前から5列目の中央からやや左寄り、正面がコンマスという位置。自分で選べるとすれば、まず選ばない。一般に高い席だし、オケを聴くのに音のバランスが良いとは決して思えないので。チケットの額面価格を見ると、ムジークフェラインでウィーンフィルを聴こうと思えばリーズナブルな価格だが、実際にエージェントに支払った金額は、ほぼその3倍だから溜め息が出る。それでもかつて知合いの放った名言「オぺラカンパニーは来日出来ても、オぺラハウスは来られない」の伝でいけば「ウィーンフィルは来日出来ても、ムジークフェラインは来られない」のだから、と自らを慰める。

今回のプログラムは、前プロが存命の作曲家フリードリッヒ・チェルハの「パーカッションと管弦楽の為の協奏曲」(初演:2009年)、後半がバルトークの「管弦楽の為の協奏曲」(初演:1944年)という21世紀と20世紀の現代曲だけというもの。ウィーン・フィルの定期演奏会は、1シーズンに10のプログラムを組むけれど、今シーズンのプログラムを見る限り、19世紀以前の作品を含まないのは今回だけ。

フリードリッヒ・チェルハという人はウィーン生まれの作曲家で、新ウィーン楽派の研究家でもあり、未完だったアルバン・ベルクの「ルル」を補筆して完成させたという人だそうだから、きっと斯界では有名なのでしょう。僕は現代作曲家には疎いので、存じ上げないが。

チェルハの協奏曲は、今回のソリストであるマーティン・グルビンガーというパーカショニストの為に書いた作品だという。この人はまだ28歳。顔立ちは、若い頃のマシュー・フレデリック(米国の俳優)に似た優しげで愛嬌のあるいわばアイドル顔。元々マリンバ奏者で世に出たらしいが、非常にアグレッシブな演奏スタイル。

いでたちは黒ずくめではあったけれど、上は肘までしか袖の無いTシャツ。手首には汗が手に伝わらないようにする為か、リストバンドをしているし、これも汗を拭くためのスポーツタオルがいろいろなところに置いてある。そして、曲に入る毎にフリークライマーが腰に下げている様なバッグから滑り止めのパウダーを手に取って入念に指先になじませる。それは、ほとんど体操選手かテニスプレーヤー辺りのルーティンに近い。

指揮者を囲む正面左右の3ヶ所に、いろいろな打楽器を配し、ソリストが楽章の途中でも指揮者の前後を行ったり来たりしていささかせわしない。ソリストの演奏しない打楽器は、ティンパニと大太鼓くらいだが、何と言っても目立つのはドラム類だろう。小さい音から大きい音までダイナミックレンジは広いのだろうが、多くの場合けたたましく叩いていた印象。ステージに近いので余計にそう感じたのかも知れないが、コンマスのキュッヒル氏も時折控えめに右の耳を塞いでいたっけ。

確かにソリストの超絶技巧は凄かったかも知れない。だがそのけたたましい音楽にも関わらず途中で眠くなってしまった。正直なところ、途中で身体が音楽を拒絶していたのかも知れない。もっともムジークフェラインの聴衆はブーイングをするでもなく、ソリストはアンコールさえ披露していた。

いずれにしてもこの日のお目当ては、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。通称「オケコン」。

作曲家がアメリカに移住し、アメリカのオーケストラ(ボストン交響楽団)の委嘱を受けて書かれた曲ではあるけれど、ハンガリーの民謡研究を極めたこの作曲家らしく、曲のイディオムは中東欧の雰囲気に溢れている。そういう曲をこのオーケストラで聴けるのは格別。

各楽器のソロも楽しめたが(厳密に言えば、各パートは合奏で出て来るので「ソロ」ではないが)、何と言っても圧巻は弦の合奏。第3楽章の「Elegia(悲歌)」は、本当に背筋と言わず身体中が総毛立った。この楽章に限らず、弦をリードするコンマスのキュッヒル氏の音が随所に耳に飛び込んで来て臨場感を味わえたのは、この席に座れた巧名。

それにしても、どうせ現代曲だけのプログラムを組むのなら、せめて「オール・バルトークプロ」なら良かったのに。

これにて今回の旅行の見納め、聞き納め。

ロッシーニ/歌劇「アルジェのイタリア女」(シュターツオパー)

一昨日の「タンホイザー」に比べると、オケは格段に小振り。基本的には二管編成だが、フルート(ピッコロと持替え)とファゴットは一本しかいない。弦のプルト数は、上から5・4・3・2・1.5(コントラバスが3本)。今夜は、同じ時間帯にコンツェルトハウスでウィーンフィルの演奏会がある。あちらのプログラムは、明晩のムジークフェラインの定期演奏会と同じ。

ロッシーニは、「セヴィリアの理髪師」「ウィリアム・テル」「泥棒かささぎ」辺りの序曲は知っているが、どれもオペラ全編はまだ観たことがなかった。

主要なキャストは、7人ほどだが、それぞれキャラクターがはまっていて楽しい。特に良いと思ったのは、大守(ムスタファ)役のIldar Abdrazakov(バス)、イザベラ(イタリア女)役のVesselina Kasarova(メゾソプラノ)、エルヴィラ(太守の妻)役のChen Reiss(ソプラノ)。「予習」でDVDを観たパリ・オペラ座の上演は、ソプラノがいささかくたびれていた感じだが、こちらの方は初々しく貞淑な感じが良く出ていたが、それが「でも食い足りないので、気の強いイタリア女に魅かれる」という設定に生きてくる。どれもそうだと思うが、特にこういう軽快な作品はキャラターにはまらない歌手がいると異和感がなかなか拭えなくて楽しめない。

リンドロ役のMaxim Mironov(テノール)はフアルセットっぽい声で、いわゆるカウンターテナーなのだと思うが、彼はベルカントの名手で、有名なロッシーニ歌手なのだそうだ。とにかく、僕にすればついぞオペラの中では聞かなかった声。何しろまともにロッシーニのオペラを聞いたのは今回が初めてですからね。

ところで主要キャストの中で、バスとテノールはロシア出身の人。前にここで観たチャイコフスキーの「スペードの女王」にはロシア人がひとりもいなかったのに、ロッシーニのオペラにロシア人が二人いるというのも何となく面白い。

それにしてもロッシーニの疾走感は、モーツァルトとともまた違うが面白い。クセになる人が多いというのも判る。「セヴィリア」以外なかなか上演される機会は少ないように思うけれど、また観てみたい。

L'italiana in Algeri
25 November 2011 Winer Staatsoper
Conductor: Marco Armiliato
Director, Set Designs & Costumes: Jean Pierre Ponnelle
Mustafa: Ildar Abdrazakov
Elvira: Chen Reiss
Lindoro: Maxim Mironov
Isabella: Vesselina Kasarova
Zulma: Rachel Frankel
Haly: Hans Peter Kammerer
Taddeo: Alfred Sramek

カールマン/オペレッタ「チャールダーシュの女王」(フォルクスオパー)


チャールダーシュというのは、19世紀に大流行したハンガリー音楽の一種だという。題名は英語では「ジプシー・プリンセス」と訳されているので、ジプシー音楽に由来するのだろう。「緩急のメロディーが交錯するのが特徴」というのは、これもジプシー音楽(ロマ音楽)に取材したブラームスの「ハンガリー舞曲集」にも言えるし、あれも19世紀の作品だ。

物語のヒロインが人気者のエンターティナーで、主要なシーンが劇場という設定もあって、この作品はストレートに Song & Dance モノだ。1930年代から50年代にかけてのRKOやMGMのミュージカル映画の雰囲気にとても近い。というより、前にも書いたが、こちらが「ご本家」。

主役のメゾソプラノはエストニア出身の人で、なかなか魅力的。基本的にはオペラ歌手の筈だが、ー生懸命踊ってもいた。相手役とその友人2人は貴族仲間と言う設定で、ヒロインを交えて歌い踊る。踊りの部分は、本職のバレエダンサーたちが終始脇を固めているので華やかで良いですねぇ。

音楽は饒舌で、オケがまた良く鳴る。指揮は大御所のルドルフ・ビーブル氏。相変らず小気味良い指揮振り。一昨年の5月には同じ場所で「メリー・ウィドウ」を観たが、あの時に80歳だったというから、もう82歳の筈だ。お元気で何より。

今回のプログラムは「新演出」と銘打ってあったので、少し訝しく思っていたが、キャストや時代の設定はオリジナル通りなので安心した。オペラばかりか、オペレッタまで「新解釈」流行りのご時世だけれど、 フォルクスオパーのオペレッタにはオーソドックスにオリジナルのままで演って欲しいですね。

Die Csárdásfürstin
Operette von Emmerich Kálmán

24 November, 2011     Volksoper Wien

Regie und szenische Neueinstudierung: Robert Herzl
Bühnenbild: Pantelis Dessyllas
Kostüme: Silvia Strahammer
Choreographie: Matyas Jurkovics
 
Dirigent: Rudolf Bibl

Sylva Varescu: Annely Peebo
Edwin Ronald: Julian Orlishausen
Boni: Roman Martin
Feri Bacsi: Wolfgang Gratschmaier
Leopold Maria: Peter Pikl
Anhilte: Maria Happel
Anastasia: Elisabeth Schwarz
Eugen: Martin Bermoser
Sigi Gross: Nicolaus Hagg
Sándor von Kiss, Notar: Raimund-Maria Natiesta

ヴァーグナー/歌劇「タンホイザー」(シュターツオパー)


昨夜は今回の旅行の第一夜。

長旅の後にヴァーグナーを観るというのは、正直辛い。いつもならオペラを観に行く日は昼寝をしておく様にするのだけれど、昨日はそれもままならず。おそらく寝入りはしなかったと思うけれど、気を失いそうになるのを必死に堪えたという感じ。

とは言っても、覚えている限りは、音楽監督のウェルザー=メストの指揮でオケも歌手たちも素晴らしかった。特にタイトルロールのタンホイザーを演じた Stephen Gould というアメリカ人のテノールがとても良かった。多分「〜という」などという言い方をしたら笑われるのかも知れない。少し調べてみたら、来年の4月には東京でも演奏会形式の「タンホイザー」を演るという。オケはN響で、指揮はアダム・フィッシャー。2年半前にこの人の指揮する「フィデリオ」をシュターツオパーで観ている。この「タンホイザー」もぜひ行ってみたいものだ。

タンホイザー」を生で聴くのは初めてだと思うが、序曲の冒頭、あの有名なホルンと木管楽器のコラールにはハッとさせられた。きっと聴いているよりは遥かに難しいアンサンブルだ。

シュターツオパーでは、今月ティーレマンの「指環」が大層な評判になったそうで、やはり指環のチクルスはぜひ観てみたい。四夜連続で体調を整えるのは、もっと大変だけどね。

TANNHÄUSER
Richard Wagner

23 November, 2011    Wiener Staatsoper

Franz Welser-Möst | Dirigent
Claus Guth | Regie
Christian Schmidt | Ausstattung
Olaf Freese | Licht
Konrad Kuhn | Dramaturgie
 
Sorin Coliban | Hermann
Stephen Gould | Tannhäuser
Matthias Goerne | Wolfram von Eschenbach
Anne Schwanewilms | Elisabeth
Iréne Theorin | Venus
Herbert Lippert | Walther von der Vogelweide
Alexandru Moisiuc | Biterolf
Peter Jelosits | Heinrich der Schreiber
Il Hong | Reinmar von Zweter
Ileana Tonca | ein junger Hirt

ウィーンへ


今週は水曜日が祝日だと言っても、木曜日と金曜日に休みを取るのは難しいかと躊躇はあったのだけれど、思い切って来てしまいましたウィーン。もっとも人生は「マーフィーの法則」に支配されているので、出て来る前はいつにも増してあたふたとし、出て来てからも気に掛かることばかり。要はブラックベリーを見なきゃ良いのだけれど。

冬のウィーンというのは、20年以上前にこの街に来始めた頃以来。それから程無く5月や9月の明るいウィーンを知る様になってからは、幾ら音楽シーズンの只中とはいえ、足が遠のいていた。

確かに空はどんよりと曇っていて、暗くて寒い。それでもクリスマスを前にして街は華やいでいるし、最初にウィーンに来た頃の感覚が甦る感じがして懐かしい。

パリで乗り継いでホテルに着いた時には、午後2時を回っていた。さっそく現地のボックスオフィスに、予約してあったオペラや演奏会のチケットを取りに行く。

今回の演目は次の通り。
11月23日:ヴァーグナー/タンホイザー(シュターツオパー)
11月24日:カールマン/チャルダーシュの女王(フォルクスオパー)
11月25日:ロッシーニ/アルジェのイタリア女(シュターツオパー)
11月26日:ウィーンフィル定期演奏会(ムジークフェライン)

ご報告は追々。

昭和の藝人

昭和の藝人 千夜一夜 (文春新書)

昭和の藝人 千夜一夜 (文春新書)


僕は昭和34年生まれなので、昭和のど真ん中に生まれその半分近くを生きたことになる。昭和34年から今までの時間を向こう側に振り返ると、明治になってしまう。当り前なのだが、ちょっと不思議な感じ。30歳近くまでは昭和だったから、性格も趣味もほぼ昭和の時代に出来上がっている訳だ。

この本は昭和の時代に活躍して(と言い切れるメジャーな人ばかりではないのだが)、既に物故した芸人(いわゆるお笑い芸人の範囲に留まらない)を取り上げた評伝。登場する88人のうち、僕の知っている人(名前と顔が一致する)は48人。著者の矢野誠一は、著名な演芸評論家だから、選んだ人々は落語をはじめとする演芸界の人が多い。元は「ちょっといい話」ものだから、長いもので3〜4ページ、短ければ1ページ余り。穿ち過ぎと思えなくないところもあるが、それでもなかなか面白い。

このところ、高峰秀子に関する本を何冊か読んでいるが、彼女の項はこういう風に結ばれている。

数あるこの国の婦人の自伝の中で白眉をなす『わたしの渡世日記』に代表される、名エッセイスト高峰秀子の文章は、彼女の畏敬していた川口松太郎のそれと同じく、なまじの学校教育に汚染されていないところに最大の魅力がある。おのが柄に即して、いたずらに情念におもねることのない醒めた視線に支えられていて、それはそのままこのひとが時代や社会に対峙してきた姿勢に通じるものだ。

これは池波正太郎にも通じる話。

ボードヴィリアンの早野凡平は、その飄々とした芸風が好きだったが、最近見掛けないと思っていたら、もう20年も前に死んでいる。享年50歳というから、もう僕の方が歳を取ってしまった。志ん朝も死んでからもう10年経つし。

自分が当り前に好きだった人やものの事を語ると自然と昔話になってゆく。それが「歳を取る」ということなんだろうね。

ホームパーティー

この前の連休の中日(なかび)は、久々に人寄せをした。

アメリカから戻って4年。自分のマンションは他人に貸していたが、そこ(ここ)に戻ってからも3年経つ。その間、引越し荷物の整理が終らずひと部屋丸々物置状態で、他の部屋も雑然と(というより半ばスラム化)していたが、この前のGWに一念発起して整理した。意外に広いですねぇ、僕の家。一人で暮らすには十分な広さでした。

そうこうするうちに、眠っていた「料理心」がうごめいて来て今回のイベント。マンションを買ったばかりの頃や、アメリカに住んでいたころは良くやっていたけれど、今回は久し振り。5年振りくらいかな。ゲストは5人で、メニューは次の通り:

  1. 漬物(小大根、セロリ)とオリーブ
  2. ラタトゥイユ
  3. ピーラー・サラダ(野菜と鯛切身)
  4. スモークサーモンとグレープフルーツのサラダ
  5. 冷製コーンスープ(焼きトウモロコシ風味)
  6. 四川風エビチリ
  7. パエリヤ

本当はあと2品予定して材料も仕入れてあったけど、既に十分なボリュームだったし、何よりいい加減疲れて来たので断念。久し振りのことなので、チョッと加減を忘れてましたね。1は出来合いとゲストのお持たせ。2と5は前日に作っておいたもの。ということで当日作ったのは4品なのだけれど、かなり取り込みましたね。最大の敗因はゲストが来る前に殆ど仕込みが出来なかったこと。部屋の掃除に存外時間が掛かって、仕入れ(買い物)から戻ってきたのはゲストを迎える30分ほど前になってしまい、いささか慌てた。

結局、5時から9時頃まで殆どキッチンに立ちっ放し。翌日は腰回りがダルく、ひざ裏からふくらはぎに掛けてパンパンに張って往生した。

反省点:

  • ラタトゥイユ:分量は某レシピ通りの筈だったが、ナスが相対的に多過ぎた様で色がチョッとダーク過ぎ。ナスはもう少し減らしましょう。
  • ピーラー・サラダ:野菜の水分がかなり出てしまった。ちょっと工夫要。
  • パエリヤ:途中から炊飯器でサフランライスを炊いてしまうレシピ。久し振りに作ったので、段取り悪し。

まぁ、こんなところです。